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~ 迷える子羊ならぬ 迷えるメシアの戯言 ~   "狂乱の貴公子" The Messiah, Ronald Oscar のブログ(仮)
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Ronald Oscar
神聖ゴルゴタの陸メタルの会総帥 / KILLING ROSE リーダー(Vo/G)
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「終活」っていうのが高齢者を中心に流行ってますね。


平均寿命的に逆算して残された人生をどう生きるか。


そしてどう落とし前をつけるか。


死んだ後に家族に迷惑をかけないとか。


遺言だのなんだのね。



でも人間はいつ死ぬかわからない。





私の考える「終活」は
世間のそれとはまた別のものであって。


ズバリどう死ぬか自分で考えて選択することが
「終活」なんじゃないかなと。


世間一般で言われている「終活」は
まだしばらくは生きていることが大前提なわけですよ。


でも死ぬことそのものを考える「終活」も
あっていいんじゃないかなと。



今の日本の法律では安楽死は NG なのかな!?


そういうのとか自殺とかも含めてどう死ぬか。


死に方そのものを考えるわけです。


もちろんそのための前段階としての
身辺整理的なものが
世間様のいう「終活」と被る部分はあるだろうけど、
そこに重きを置いてない人もいるだろうし
中にはそんなこと必要ないと思ってる人もいるだろうし。





世の中、「自殺」ということに対して
非常にネガティヴというか
否定的な考えを持った人がほとんどです。


しかしこれって本当は人間の特権みたいなもので。



確かにどの動物を見ても
自分で命を絶つ動物なんかいないのです。


生きようとするのが動物の本能です。


つまり自殺はおかしいっていうのが一般的な考えなわけです。



確かにその本能はもちろん人間にも備わっているわけですが、
しかし一方で人間には他の動物にはない
理性というものがあるわけです。


その理性と本能がぶつかって
ややこしいことになったりするわけですね。


で、大体のケースが理性で抑えることの方が
正しいとされている場合が多いのが
人間社会というわけです。



ということはですよ、
本能で生きようとしても
自分の中でそれを否定するものが現れたとき、
それはすなわち理性的な思考からくるものであって、
本来は肯定されるべきものではないかと。


つまり、人間は生きるか死ぬかを
自分自身で選択できる唯一の種別なのですよ。


そしてそれは否定されるべきことではなく
むしろある意味貴いと思います。


それを考えて権利を行使することのできる人って
なかなかいるわけでもないので。





芥川龍之介の「河童」なんかは
生まれてくるかどうするかを選択するわけだから
その究極というか、
無駄な「終活」をするくらいなら
「生活」(!?)を最初にしてしまうという
究極な考えに行きつくわけです。


いや、究極どころか至極当然な考えですよね。


生まれてこなければよかった。

生まれてきてごめんなさい。

死んでしまいたい。


そう思う人も多いわけで、
それらが全て解消されるわけですから。



現実問題そんな「生活」はできないわけだから
せめて私の思うような「終活」もあってもいいと思う。










emoji









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電話番号やメールアドレスの死守、変更の拒否って
今やどれほどの重要性を帯びているのか…!?


少し前まではやっぱり変わることに抵抗がある人が多くて
それが MNP で少しずつ崩れて
格安 SIM で崩壊した感じかな!?


もちろん完全にではないけど。



MNP で安くなって番号が死守できるなら
メールはしょうがないっていう人が出てきて
そうこうしてるうちに LINE が急速に普及して
もはやキャリアメールは意味を持たなくなって。


キャリアメールが要らないなら
格安 SIM でいいよねって流れでしょうか。





元々変わっても構わないという層はいただろうし、
逆に何があっても変わらない層もいるだろうし。


自分は後者でしょうか。


多分前者の人って基本的に自分主体で
放っておいても他人から連絡が来るタイプで
グループというか繋がりが多くて
連絡先が変わっても他人伝いで何とかなったり
自由奔放なタイプが多いのかなと。


自分から変更の連絡をいちいちしなくても気にしない。


そもそも自分から必要な人に必要な時に
連絡すればいいって考えてるタイプかな。



後者の人の多くは人に変更を連絡するのが億劫だったり
そもそもそれ自体が支障があったりかな。


よく言えばキチっとした人なのかも。





自分は後者だけど、理由がちょっと違うかな。


もしかしたら自分と似た人って
実はいるのかもしれないけど、どうだろう!?



もちろん変更を連絡するのが面倒臭いけど
それは社会生活を営むにあたっての諸々のためであり。


それ以前に正直連絡する人がいないと言ったほうが正しいのかもしれない。


つまり友達がいない、人付き合いがないので
変わったことを連絡する人がどれだけいるのか、
その必要があるのかないのか悩むわけです。


多分その必要はないんですよ。


その連絡自体が相手にとってはどうでもいいことだとは思うし
そのどうでもいいことをわざわざする原因をつくりたくないし。


でももしかして誰かから何かの用事があって
連絡が取れなくなっていた場合、
そういう時にせっかく連絡をくれた人とも
断絶してしまうのもいかんとは思うし、
あの野郎変更連絡すらもなしかよ
とか思われるのも嫌だし。


そういう細かいことをいちいち考えるのが疲れるし
変えないのが一番無難というか
他人をふるいにかけるのも嫌だし
そもそもふるいにかけるほどの人もいないし
かといって誰にとっても無意味な無差別テロ(=変更連絡)
はしたくないし。



実際何かの連絡を誰かにしたときに
相手ががっちり受信設定してて
届かなかったこととか何度かあるし。


つまり、その人にとって私のアドレスは
少なくとも変更後に許可のリストには入ってないってことですよね。


メールしても届いてるのか届いてないのか
返事が全くない場合もあったり。


そういう方々を相手に無意味な連絡はしたくないし、
不要とされている、いや、存在すら無とされている
現実を知るのも嫌なのかな。


だから来るもの拒まずではないけど
受けの姿勢だけで変えないままできているのかもしれない。





結局このブログ残してるのも同じなのかなーって。


誰も来ない、読まないけど、なんとなく、ね。


結局無くなって寂しいのは自分だけなんだろうなって。



99% 誰もちゃんと読んでないと思う。


たまに来訪者がいても
知ってる人の場合は
生存確認で来てくれることもあるかもしれない。


でも生存確認の目的が達成できたら
内容はどうでもいいから読まないと思うんだよね。



逆に知らない人の場合は
検索等で調べたいことがあって来るわけだから
少なくとも該当記事は読んでくれてるでしょうけど。


でもそれっきりだよね。





随分前からいろいろと原因があって
ブログを更新しなくなって。


そしてそれが当たり前になって。


今年に入ってから少し自分でも変えようかなと思って
少しずつでも更新しようかなと思っていて
実際少しだけだけど更新頻度も増えたけど
時すでに遅し。


他人様の関心も信用も何もかも失っていた。


というか最初からそんなものあったのかって話だけど。


この状態で存在させとくのもあんまり意味ないよね。



大体時代はこういうブログの時代ではないし。


FACEBOOK は大嫌いだし
インスタの嘘くさい馴れ合いは女子便所みたいで気持ち悪いし。

ネタでインスタやるならいいとは思うけど。


MIXI は出てきたときはまるで宗教だったけど
ああいうのからネットイジメみたいのが始まったのかな!?

まあもうほぼ仮死状態でザマアだけど。


TWITTER はある程度の匿名性を保てるなら
有意義に使えるとは思うけど。

どう使うかだよね。



ということもあって
あーだこーだ書きつつも
やっぱりここの扱いについて考えてしまう。

及び他展開するかどうかも。


まあ根底には自分の在り方や
自分の存在自体っていう糞みたいな問題があるわけだけど。


つまりはひとことで言えば無意味ってこと。





前にも書いたけど断捨離ですか?


あれでよくいうのが
何年も着てない洋服は捨てましょうとか。


今の世の中、人間も同じ風に考えられてるのかな。


他人っていうのも気づけば疎遠になっていたりして
それ自体は仕方がないけど、
当時は密接に関わっていて
お互い重要視していた関係性でも
数年経つとその人の今の生活に自分は
恐ろしく意味のない存在に成り下がっていたり。


むしろ迷惑だったりとかね。


たとえばメールが届かないとか
返事がないというのも
単純にそういうことだよね。


つまり人の断捨離もあながち嘘ではないというか、
気がつかないうちに断捨離されてるんだよね。





私は所詮そんな人間だからして
どうしたもんかなーと…。


仮にこれから人に必要とされることがあったとしても
それに応えられる自分であるかどうかもわからない。


いや、今の自分はそうではない可能性が高い。



多分、そういうことを考える一年になると思う。


まあ今年だけじゃなくここ数年ずっと考えていたし。


元々子供の頃からそういうことを考える人種ではあったし。





厨二万歳だこの野郎!


一生厨二で結構だよ!



生まれてきてごめんなさい…。










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X は嫌いでした。


少なくともデビュー当時~沢田泰司脱退くらいまでは。


その後は好きとか嫌いとか以前に
まったく関心がなかったので
よく知らなかったです。


何回か書いていると思うけど、
死んだ人と洗脳された人の
違いがわかってなかったくらいなので…。


今は…まあ好きなんだろうね。


その辺は今回は置いといて…。





で、今回はその死んだ方の人のお話というか
全然そうでもないというか。


大した話ではないです。



彼が如何に偉大だったのかは
そういうわけで私にはちゃんと理解はできていません。


しかし彼が未だに絶大な影響力を誇り
人々に愛され続けているという事実は
よく理解できています。


毎年この時期になると
必ず彼の何らかの話を聞きます。


彼は何故死んだのか。


警察は自殺と断定したけど
多くのファンはそれを認めいてない。





一方、別の「死んだ方の人」というか、
沢田泰司の場合も自殺とされているのかな!?


正直彼の死には謎が多すぎて
事件性が隠されているというか
何かが隠蔽されているとしか思えない。



いずれにしても、ソロとしてのキャリアも順調で
死ぬ要素なんてなさそうだった松本氏とは対照的で、
沢田氏の場合は頂上に上り詰めてからの落差が激しすぎた。


あえて語弊がある言い方をすれば、
彼の場合はいつ死んでもおかしくなかったのかなと。


晩年に X のライブにゲスト参加したことと
その死に方があまりにも不可解すぎたために
一部では大きな騒ぎとなったけど、
もし X のライブに参加しなかったら、
もし海外での不可解な死ではなく
国内での自然なかたちでの死だったら、
もっと静かに息を引き取っていたんじゃないかな
とは思う。





「死んだ方の人のお話」どころか
「別の死んだ方の人のお話」
になりかけてますが、
まあどっちの話ということでもなく…。


別に何かが言いたくてこういう話を書き始めたわけではないんだけど。


自分の場合はどっちかといえば
沢田氏に近い最期なんだろうなというか、
事件がなかった場合の沢田氏というか。



毎日たくさんの人が死んでいて
惜しまれつつ死んでいく人もいれば
人知れず息を引き取る人も多数いて。


自分は元から死ぬときは
何もなかったかのようにいなくなりたい
って思ってはいるけど
人間死んでもそう簡単にはいかないというか。


無縁墓地みたいのに適当に葬ってほしいけど
現実問題死んだ後のことは自分ではどうにもできないし。


このまますぐ死ななかったことを考えると、
最終的に誰に迷惑がかかるのかなと考えた時に、
それはいけないなーと。


迷惑のかけ先ということを考えると、
だったら今すぐ死んだほうがまだマシなのかなーとか。


なかなか人間死ぬのも簡単じゃない。





松本氏とか沢田氏とか関係ないじゃんって!?


まあ確かに…。


でもそういう他人の死を意識することで
得られることもあると思う。



松本氏に関してはその存在を通して
生というものを見つめ直す
きっかけにもなるのかなとも思ったり。


冒頭にも書いたとおり
彼の影響や偉大さ、彼への愛が
未だに感じさせられることが多々あるし。


そういう人ってどういう人なんだろうって
単純に興味もあるし。


そうではない自分はどうすべきなのか
何かヒントがあるのかもしれないし。





物凄いどうでもいい話だけど、
大昔ちょっと雑誌のライターをしていた頃、
一緒に仕事していた人が横須賀出身の人で。


松本氏のご家族とツテがあるとかないとかで。


まあいろんな事情があったんですが
そんな話から彼の本を出すって言ってて。


その際には手伝ってくれということで、
それが上手くいけば新しい雑誌を創刊して
そのメンバーとして参加する
っていう話があった。


まあその話はなかったことになり
当然新しい雑誌なんて発刊されなかったんだけど。



まあ随分古い話ではあるけど、
そう考えると存在を意識するきっかけは
相当前からあった
っていうことなんだよね。





そういえば一度だけ命日に築地本願寺に行ったことがある。
といっても外までだけど。


どうでもいいけど身内の命日が松本氏と1日違いで
築地本願寺には法事に出向いたことがあるけど、
そのときのほうが混んでたくらい、
当日は意外と普通だった。


それでも毎年訪れるマニアもいるんだろうし。


三浦霊園には一回行きたいとは思ってるけど
遠いし、なかなかね…。


まあもっと彼のことを知った後でも遅くはないでしょう。





最後にどうでもいいけど
実はモッキンバードは好きです。


でもエックス野郎と同じギターなんて弾けるかよ!
と敬遠していた若かりし頃…。


まあもっともギターのシェイプに関しては
当時からフライングV はとにかく別格だったので。


でも今モッキン弾いてる人見ても
やっぱり彼を連想するよね、単純に。


マイケル・シェンカーのフライングV バリだよね。


やっぱりそれって物凄い影響力だと思うよ。





とまあとりとめもなくなんとなく書いてみましたが、
彼は死にたかったのかどうなのか、
やっぱりそこは知りたい。










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ここ数年、『断捨離』っていうのが流行ってるのかな!?


でも個人的には考え方としては10年くらい前からは
そういう傾向があったので、
なんか流行って嫌だなーって思ったり。


天邪鬼精神ですね、はい。


まあ考え方としてあっただけなので
実行しているかどうかはまた別問題なんだけど。





本当の意味はよくわからないけど、
多分今流行ってる『断捨離』っていうのは
これも今流行の世間でいう『終活』っていうのに近いかなって。


少なくとも通ずるものはあるよね。


でもこれ、つきつめると(独自解釈です)
多分前回書いたことに近いのかもしれないなーって。


つまり究極は自分の存在を消してしまうことなんだろうと思う。


終活ではなく。


計画的にというよりは
もっと直感的にというかね。


衝動性というか。


そうすれば全部解決じゃない!?



残された人が困るかどうかという問題はあるけど、
そこ気にするのはやっぱり終活と違わないじゃんってことだしね。


やっぱり違いはそこだね。


というか勝手に独自解釈してるだけの話
といわれてしまうと否定はできないしな…。


ならば言葉つくるか!?





なーんてことを考えつつも、
今世間で言われているほうの断捨離すらも
できていないけど…。


つーか HP 改修問題や
このブログどうする問題とかも
そういうのに値するし、
それに付随するデジタルゴミが
未だに散乱していたりするので
その辺も整理したいし。



大体ロックファンとかって
元来収集癖があるからね。


この辺は大きな課題であり
一番頭を悩ませているところではある。


その辺に関しては、消えてなければまた今度。










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本来「日記」というものは人様に公開するものではなく。


その内的な「日記」というものが
インターネットの普及と共に
対外的に見られることを前提とした
「日記ツール」に変わって流行り、
それが「ブログ」に発展して。


そして今は「SNS」に取って代わって。


「他人に見られること」
はもちろんのこと、
「他人と交流すること」
が大前提の何かなわけですよね、
昨今流行の SNS というのは。


時として見られないほうがいいことなのに
何故か公開交流して面倒臭いことになったり…。



で、そういうのが得意ではない私としては
時代にそぐわなくもなり。


ここくらい過疎になると
逆に本来の意味での「日記」に近いものがあるなーと思ったり。


元々備忘録的なものもあり、
公開する必要性のないものでもあった部分もあるし。


人が見てないなら公開する必要もないっていえばないし。


逆にどうせ過疎なら開き直って
もっと書ける内容もあるかもしれないし。


なんてね、過疎だからこそ思う在り方。



しかし以前から閉鎖するかもだの
いや続けるだのいろいろ言っていますが、
やっぱりちょっと考えようかなと。



生存確認とかであってもいいと
思ったりもしたんだけど、
それもちょっと思うところがあってね。


仮に確認はされてもこっちからは何も確認できないしさ。


今みたいに誰も気にしてないうちに自然に消えていくのが正しいのかなって。





死んだらパソコンが初期化されるアプリみたいのがあるじゃないですか。


本人以外がログインしようとしたら
データが全部消えてしまうっていう遺書ツール。


あれじゃないけど、
死後にいろいろ調べられたり詮索されたりするの
物凄い嫌だなーって思ってて。


なんでもいいけどいろいろ整理する部分は
整理しないととかっていつも思ってたりしてるけど、
それって死ぬことを意識してるってよりも
生きてるからこそやる発想だよなーって。


だって、じゃあそれをしっかり備えて死に至りますか?
と問われれば、そんなことないしね。



多分死ぬことを真面目に意識しているというか
生きることに執着しなくなると
そんなことどうでもいいから
今すぐ消えてしまいたいってなるはず。



死ぬ気になれば何でもできる
っていうのも大嘘。


死ぬ気になれる奴は死ぬだけだよ。


だって死ぬ気でしかないんだから。


逆に死ぬ気になれないとそう簡単には死ねない。



その台詞口にする大多数が死ぬ気のない奴ですよ。


「死にたくない」と同義語ですね。


実際死ぬことではなく生きることを考え選択するわけだし。



つまり考える余裕があるうちは
まだ極限の下に眠っている極限や
底辺の下にまだある奈落の底までに
到達していないどころか
その存在すらわかてないわけでね。


まあそんなもの知らないほうがいいわけだけど。



しかしそんなところに到達しようがしまいが
考える余裕も何もなくなって
もうそんなことどうでもいいやって
なるときがあるわけですよ。


でも現時点ではまだ、そんな時に残ってる物が
少なければ少ないほどいいなって
考えられる思考能力もあるとは思うから。


だからそんなうちに消える用意もしておいてもいいかなって。



まあこんなこと書いてるうちは消えないんだろうけど。


しかしそこに本人の意思が介在できる確率は
通常であれば極めて低いしな…。



という「日記」でした。










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