かつての「ジャイアント馬場 全日本プロレス」
で名レフェリーとして活躍したジョー樋口氏が
8日午前5時38分、肺腺がんのため死去された。
81歳だった。
プロレスリング・ノア オフィシャル
スポーツ報知
ジョー樋口氏は1954年に山口利夫の全日本プロレス協会
にレスラーとして入門。
全日本プロレス協会崩壊後、力道山の日本プロレスに移籍。
1960年に引退するも、1963年から通訳など世話役として日本プロレスに復帰。
1972年、日本プロレスを離脱したジャイアント馬場の全日本プロレスに
旗揚げから参加。
以降、名レフェリーとして活躍することに。
1999年、ジャイアント馬場の死を機に全日本プロレスを退社。
2000年、全日本プロレスからほとんどの選手が離脱し旗揚げした
三沢光晴のプロレスリング・ノアに監査役として参加。
ノアのタイトルであるGHCのタイトル管理委員長を務めた。
+++++++++++++++++++++++++++++++
また一人、昭和の伝説が逝ってしまった…。
プロレスゴールデンタイム世代にとっては
「レフェリーといえばジョー樋口」
という人は多かったと思う。
NWA全盛の当時として、日本人でNWA公認レフェリーだったのは
当初ジョー樋口だけではなかったか。
子供心にその肩書きには説得力があったし、
目を引くスキンヘッドとしばしば乱闘に巻き込まれたりと、
インパクトも強かった。
そしてその絶妙なレフェリングで数々のドラマもつくり上げたりと
まだプロレスが熱かった時代において
ジョー樋口の存在は欠かせないものであった。
その存在感の大きさ、人気はレスラー並みで、
全日本プロレスでの後年は、選手コール後、リングアナの
「レフェリージョー樋口~」
の紹介で、会場に
「ジョー!」コールが巻き起こるのが当たり前にもなった。
近年はノアのタイトルマッチの際に
タイトル管理委員長としてリング上に姿を見せ、
認定証を読み上げた後に
「ジョー!」コールが起こるのも定番になっていた。
そんな未だに愛されているレジェンドが逝ってしまっただなんて、
本当に寂しい…。
ジョー樋口
(本名:樋口寛治)
1929/1/18 - 2010/11/8
享年81歳
ご冥福をお祈り致します。
Rest In Peace...
PR